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注:大学~最初の展示


ボクの父は売れない日本画家だったので、小学校の時にはよく「貧乏絵描きの息子~」と、バカにされた。
なので、大学受験は某国立大学を第一希望にしていた(一般の大学)。あっけなく落ちてしまって、合格していた中でやむを得ず裕福な人しか居ないと認識されていた大学の、たまたま法学部へ、入った。
そこは、金持ちな大学だけあって、貧乏人を救済する制度が充実していた。給付奨学金(授業料半額免除)をもらって通った。貸与の育英会のも。スーパーや家庭教師のバイトをしていた。
法律もとくに志望していなかった、まあ、何の学部でもよかった。法律は、まったくつまらなかった。でも、真面目に通った。成績も、まあ良かった。しかしやっぱり、校風に馴染めることは全く無かった。楽しいサークルにもゼミにも入らなかった。
就職に望むべく、対人が超苦手な性格をなんとか改善できないものか、と、北海道ひとり旅に出た。
最初に宿で出会った人に教わって、思いがけずヒッチハイクで回るようなことになった(数十台に乗せてもらった)り、YHに泊まっていろんな人と出会い語らい、即就職という選択肢だけが人生ではないと気付かされた。
なので、就職の圧力から逃げるように、4年生の4月から、夜間の美大予備校へ通うことにした。
画家の子ではあったけれど、絵を描くのが好きなわけでもなく教室などで教わったことも無く、学校の授業だけだった。基礎力が無かったわけで、予備校でも、わずかづつデッサン力は身に付いていったけれど、課題で一回も合格ラインに達するものを描けたことは無かった。
試験本番の一次試験は通常の石膏像デッサンではなく、色味の無いいくつかの素材(砂、新聞紙、植木鉢、サザエアワビの貝殻、卵と卵パックなど)を個々人で並べ構成して一日6時間で一枚、が二日、というイレギュラーな年に当たっていた。
会場の誰よりも構成に時間をかけてあれやこれや検討して並べた。みんなはササっと並べてすぐに描き始めていた。ボクはたぶん3時間ほど構成に時間をかけて、残りの半分の時間で一気に描いた。絵は、構成が最も大事で、破綻があると取り返しがつかないということは、父を観ていて理解していた。予備校でも強引に描き上げることは、得意なほうだった…
二次試験は真っ白なウサギをふたポーズ着彩で描けというモノ。全然動かなかくてみんな時間を持て余すほどだったので、差は付かなかったんだと思う。一次の出来で決まったはずだ。
例年のような、花束やたくさんの細かいものの着彩だったら実力者たちにとうてい太刀打ちできなかった。
そんな付け焼き刃のデッサン力は、さらに磨こうという気にもならず、入学と同時にゼロに戻って行った。日本画制作のほうもたいして熱心になることも無く、旅やナポレオンというトランプゲームの集まりに時間を費やしてばかりいた。
卒業後も同様で、画業のほうはやる気が起こらず、家庭教師などで食いつなぎ、それにも嫌気がさして、遺跡発掘作業の肉体労働に就いた。そこにはさまざまな人が居た。
団体展に出品しながら働いていた人の展示を観に行ったりして触発されたんだろう、銀座のはずれの小さなギャラリーで気ままな展示を始めることになった。30代半ばになっていたな。。。